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実家前の国道を挟み目の前に昔ながらの商店がある

”昔ながら”とは書いているが、今とは違いコンビニも無し大型ディスカウントスーパー
も無しの時代で近所の主婦にはとても重宝がられていた

当時から古びた感はあったものの
幼い私の心をくすぐるには充分な存在だった

学校から帰り台所に行くとテーブルの上には
60円が置いてある
必ず毎日60円

父母は仕事で子供たちより後に帰ってくる
いわゆる”鍵っ子”なので
そのお金でいい子にしてなさい的なことであろう

ランドセルを投げすぐに向かいに走り
当時60円の”グリコ”を買い
キャラメルを頬張りながら
おまけの玩具を開けていた

母は”グリコ”が買える丁度の金額をテーブルの上に
置いてくれているわけだが
たまに違うものも買っていた記憶がある

店の外には自動販売機も置いてあり
コーラやファンタは190ミリの瓶で販売していて
備え付けの栓抜きで開けて飲みながら家に帰ったこともある

ある寒い季節にいつものように買いに行くと
店内で老人たちが石油ストーブを囲み立ち飲みをしながら
談笑していた

恐らく座って飲食をすると許可的なことで面倒なことになるのか
買った後の商品だから何処で飲んでもいいじゃねえかということか
今となっては分からないことが多いが
とにかく店主の老人も気にも止めず談笑に参加していた

カップに入った日本酒を大事そうにちびりとやり
唇を濡らしながらタレに浸かったイカのツマミをこれまた
ちびりと食べて
子供だった私が店に入ってきても声を掛けることなく
とりとめのない話が続いていた

毎日の小さな楽しみは
少し大人の世界も垣間見える空間だった

店主が亡くなり
後を追うようにその妻も亡くなり

私が中学を卒業する頃には店が取り壊され
跡地に息子夫婦が家を建てていた

コンビニエンスストアが台頭し
大型店舗がシステムチックに生活を楽にさせる昨今
昔のような商店はニーズがないのは確かだが

”あの頃”の小さな楽しみがセピアになりながらも
キャラメルのあの甘さと共に記憶に残っている私には
やはりどこか淋しさを今でも感じている
















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実家の周りは山に囲まれ、近くには大きな川が流れており
景観は今も昔もほとんど変わりがありませんが水質の違いは歴然・・・

小学生の頃夏休みになると一日の大半を川で過ごしていました
水温は夏でも刺すように冷たく一度入って出ると
次に入る時に躊躇するほどに体に堪えます

水面に乱反射する太陽の光を浴びつつ目を凝らし水底を見ると
優雅に流れに身を任せていたと思えば矢のような鋭い速さで
魚たちは無数にあるいは単独で鱗をきらきらさせながら泳いでいます


二つ上の兄と私は川岸に着くと目的の大きな岩まで
川から出た石に飛び移りながら移動します
途中静かに川に入り息を止め石の下に体をかがめ
顔を水中に入れ覗きます

水の中の丸い石には濃い緑の苔が生えており
指で拭ったような跡が無数に付いています

鮎は自分の縄張りの石に何度も体をこすり付け
苔を削り取りながら食べているのです

ひとつ石を決め鮎を待ちます
兄は銛を持ち息を潜めます

聞こえてくるのは
近くでやさしく岩にあたる水の跳ねる音と
山にこだまする蝉の鳴き声
川幅が広くなった川下では大きな流れが
轟音のように響きます

一閃
兄の銛は迷いなく水中に放たれます

銛を持ちあげ腹を貫かれた鮎を網に入れ
次のポイントへ進みます

大きな岩に着く頃には5~6匹獲っており
2人で乾いた枝と良く燃えそうな枯れ葉を探したら
岩のいつもの場所の凹みで火をおこし鮎を焼きます

私はしっかり目に焼かれた鮎を背中側からかぶりつき
ホクホクとした身を口いっぱい頬張り
皮の旨みを味わい
内臓の苦みを楽しみ
頭と尾ををばりばり噛み砕き
文字通り鮎を骨まで愛しました

獲れたその場で食す贅沢の極みです

うなぎ、ナマズ、スッポン、鯉・・・
川で獲れたものはその日のごちそうになり
食卓にあがります

今の私の料理に対する価値観は
この自然から培われたものであり
記憶と経験の素晴らしい財産になりました

私も兄から魚の獲り方や火のおこし方
自然が相手のテクニックを教わりましたが
やはり兄の方が上手です
大人になると兄は釣狂となり
今でも野生の勘を研ぎ澄ませているようです

















今となっては母の料理は味覚の原点に帰るところであり
違和感なく受け入れられる唯一無二の外食になりました

しかし料理に興味を持ったからといって幼少期は
母の作る料理すべてに好感をもてた訳ではありませんでした

好きなのもあれば嫌いなものも・・・

学校が休みの日で天気が良ければ
だいたい家の裏で兄と田舎の遊びに興じていました

春はつくしやふきのとうを採り
夏は川で鮎を獲りその場で焼き喰らい
秋でも冬でも外で遊ぶのが当時の日常


昼頃になると腹は正直で
頭より先に反応し足は自宅に向かいます
その道ほど
玄関に着くまでに台所の換気扇口の下を通るのですが

母に変わって今日の献立を換気扇は
教えてくれるのです


ウィンナー・玉ねぎ・ピーマンの焼けるにおい
そしてケチャップのツンとした酸味

ああ、今日はスパゲッティか・・・

あの頃食べていたスパゲッティは
多少具は変わってももれなくナポリタンでした

私は好きではなかった

食卓に着くまでにすでにげんなりしていた私は
炒めすぎてぱさぱさになった麺を無理やり口に頬張り
半分程度残してそそくさと席を立ち午後の遊びに出ます

母は母なりにアイデアを凝らして
日々の忙しい家事の合間に作る料理

薄味のカレー
やたらと人参が多い焼うどん
固い肉の牛丼

換気扇からの愛のメッセージを私は無下にし
母なりの料理を私は残していました


今も時々用事で実家に帰ると
母は昼食を作ります
もちろん今は完食です

時は経ち
味覚も胃袋も精神も大人になった私は
飲食の仕事に就き
ようやく
誰かの為に作ることの大切さを
母の料理から学びます






















みなさんは自分で初めて作った料理は何か覚えていますか?

おそらく多くの答えは「分からない・覚えてない」か
あるいは幼少期に親の横で手伝いの際に作ったかではないでしょうか

私は後者の答えで
しかも何を作ったかはっきり覚えているのです

”柿と魚肉ソーセージの炒め物”・・・!?

衝撃的で刺激的で絶望的

しかも自分では食べた記憶が無いから
親が食べてくれたのか

はたまた・・・




小学4年生の時

両親は共働きで学校から帰っても不在なので
夕食までは兄と二人で遊ぶ日々

決して裕福とは言えなくても一家団欒
楽しく過ごしていました

その日の夕食後何を思ったのか私は母に
料理をしたいと申し出たのです

食後だったのであるものでという条件で
冷蔵庫の中を漁り取り出したのが

先の柿と魚肉ソーセージ

柿は母に手伝ってもらいながら剥き

ソーセージは自分で包丁を使いぶつの切り・・・

サラダ油をフライパンに入れ火にかけ

暖まらない状態で材料を投入

見よう見まねで木べらを使い混ぜる

調味料は一切入れずただただ混ぜる

しかし私は集中していました

料理するという行為に高揚していました


何を使おうがどんな料理になろうが
母は何も言わず

パジャマを着て
椅子に上りままごとのように
混ぜ続ける私の様子を傍らで

見守り続けていました


この時の母が何を思っていたかなど
子供である私には知る由もありませんでしたが

子を持つ親になることで
理解できるようになりました

子が体験する感動は
親にとっても特別な瞬間だということを

そしてもしかしたらこの時すでに私の中には

料理を作る喜び
誰かに食べてもらう楽しみが

沸き始めていたのかもしれません
























  
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